五右衛門風呂の歴史

処刑される石川五右衛門

五右衛門風呂の名前の由来


安土桃山時代も終わりに近い1594年、豊臣秀吉の命により大盗・石川五右衛門が手下と共に捕らえられ、彼と彼の子・五郎市が見せしめとして京都三条河原で釜煎りの刑に処せられたという有名な説話に基づいています。大きな羽釜で茹でられたと記憶している方も多いかも知れませんが、実際は釜で油煎りにされたようです。なんとも恐ろしい話です。

 

日本最古の五右衛門風呂


鎌倉時代初め、南都焼討で被害を受けた東大寺再建のための木材調達に周防国(現在の山口県防府市)に渡った僧侶・重源上人が考案製作した東大寺別院阿弥陀寺の湯屋にある「鉄湯舟」が直火煙道式の長州風呂(鋳鉄製五右衛門風呂)の元祖とされています。
宋(中国)で学んだ経験を生かし、重源上人は東大寺復興に際して宋の建築様式を大胆に取り入れました。鉄湯舟もその一つでした。中国から渡ってきた五右衛門風呂のルーツをスタートとするならば、日本の五右衛門風呂文化はおよそ800年以上の歴史となります。

現存する鎌倉時代の鉄湯釜

 

 

 

 

 

写真左:現存する鉄湯釜
写真右:鉄湯舟の一部

 

五右衛門風呂の変遷


江戸時代、高価な鉄に代わる物として、火に当たる底部のみが鉄で、上は木桶で作られた風呂が五右衛門風呂と呼ばれ、一般的になりました。明治時代に入り製鉄技術が進化して鉄の流通量が増えると、木桶と鉄の五右衛門風呂に代わり、鋳鉄製の長州風呂が一般的になっていきます。
室町時代から鋳物文化が発達していた広島の可部で多く作られたこの長州風呂ですが、当初は広島風呂として売り出されました。ところが当時は勤王派が政治の実権を握っていたため、佐幕派の広島では京都・奈良でのイメージが悪いと、長州風呂と改名して売り出したところ大ヒットした、という話があります。

木桶と鉄の五右衛門風呂は煙突がなく煙たいことや、接合部から水が漏れることもあり、その作りは次第に廃れていきました。そして鋳鉄製の長州風呂が「五右衛門風呂」として取って代わり、一般に浸透していきました。

 

西高東低?


江戸時代後期になると、西日本では自宅に五右衛門風呂を作る家も増えてきました。一方、江戸時代中期にはすでに人口100万人を越す過密都市であった江戸では、燃料や水の確保が難しく、また木造の長屋が密集していた為、頻繁に起きていた火事を防ぐためにも一般的にならなかったと思われます。それに代わり、江戸の人々の社交場でもあった銭湯が当時の主流だったようです。

東海道中膝栗毛 小田原宿

やじさん&きたさんが江戸~お伊勢参り~京都大坂まで東海道を旅する珍道中「東海道中膝栗毛」に、草津・大津あたりからが五右衛門風呂圏であり、小田原宿のくだりでも「・・・・上方で流行っている五右衛門風呂」と書かれているように、西日本で五右衛門風呂文化は進んでいたようです。

重源上人によって作られた日本最古の五右衛門風呂が山口県であったこと、またその様式は京都・奈良でも取り入れられていたことや、広島が古くから鋳物の町であり、長州風呂の全国生産量の約8割が広島であったことを考えると、「西高東低」であることも頷けます。また、現在では国内唯一となった五右衛門風呂メーカーである大和重工も、前述の広島市可部地区にあります。

 

 

入浴という文化


538年の仏教伝来による寺院の浴堂に端を発している入浴の文化。
元来、罪や穢れを落とし、浄化するための沐浴を「禊―みそぎ」として行う神道の風習が日本には古くからありました。
仏教では、入浴によって七病を除き、七福を得るという教えを説き、一般に普及させるための布教手段として温泉と寺院の浴堂とが相補完しあって活用されました。温泉地から遠い庶民にとっては寺院の浴堂で行われる「施浴」が唯一の入浴の機会でした。

保健衛生の見地から、そして宗教的精神を養うものとして始まった入浴は、現代のストレス社会においても、単に体を清潔に保つ目的だけでなく、心身を浄化する大切な癒しの時間ではないでしょうか。何かと手短にしたがるわれわれ現代人ですが、シャワーで済ませずに、たまにはゆっくりと湯に浸かってほしいと思います。

*参考資料*
江夏弘「お風呂考現学」
柳田國男「風呂の起源」
Wikipedia等